ラブライブ!サンシャイン!!考察 〜過去から未来へと紡ぐ物語〜

この考察は劇場版のネタバレを含みます!劇場版をまだ見ていなくて新鮮な気持ちで鑑賞したい!という方はブラウザバック推奨です!

 

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では始めていきたいと思います。

まずはラブライブサンシャイン劇場版、公開おめでとうございます!!!!!!誰に向けて言ってるのかはっきりしないところはさておき、ついに公開されましたね!!私は公開初日に1回見てその後ちまちまとみて3回ですが、知り合いには初日に3回見ている猛者もいてすごいなあと思う限りです。劇場版の内容については賛否両論あるようですが、私個人はとてもよくできた作品だなと思っています。酒井監督がラブライブサンシャインという作品を通してやりたかったことがよくまとまっていたのではないかと。とはいえまだまだ汲み取り切れていない部分もあるんだろうなぁと強く感じますしこれからもまだまだ劇場版を見にいく予定ですが、その前に現段階で思っていることをまとめてさらなる考察の準備ができればと思っています。

 

さて、今回タイトルを「ラブライブ!サンシャイン!!考察 〜過去から未来へと紡ぐ物語〜」としたのは、アニメ1期2期も含めた全体を通してこの3回劇場版を見たからですね。副題の部分は私が劇場版まで見たところでラブライブサンシャインという作品を貫く大きなテーマだと私が感じたものです。ここからは(1)アニメシリーズでのテーマ、(2)劇場版における過去からの解放、と見ていき最後にちょっとだけ(3)ラブライブサンシャインにおける黒澤ルビィでルビィちゃんの象徴的な部分について触れようかなと思います!総時数は約6500字でそれなりに長いのでお気をつけください!それではアニメの振り返りから始めていきましょう!

 

アニメシリーズでのテーマ

ラブライブサンシャインのアニメシリーズでは「過去からの解放」が強く描かれていたように思います。それはAqoursというグループにおいてもAqoursのメンバーというレベルにおいても一貫して描かれていました。

 

例えば、グループとしてのAqoursを考えてみればμ’sがその過去に当たります。これはダイヤさんがμ’sのことをスクールアイドルの伝説・聖典と述べている点にもよく表れているでしょう。伝説も聖典も過去の偉業の記録であり、ラブライブ!無印で描かれたμ’sの物語は偉業たりえるサクセスストーリーでした。またμ’sが3年生の卒業とともにグループを終わりにするといった決断やラブライブサンシャイン1期12話での「μ’sが何も残していかなかった」と言った話もμ’sという過去の断絶性を物語っています。現在とは断絶した過去、これはまさに私たちが伝説や聖典といった言葉から想像するものではないでしょうか。

 

そんな伝説としてのμ’sを追い求める形で始まったAqoursは1期を通してμ’sのようにという言葉が多く出てきます。しかしμ’sを見て思い描いていたほどには事がうまく運ばないAqours。「くやしくないの?」の回で千歌ちゃんがμ’sのポスターに手を伸ばすものの届かず、そのまま手を堕してしまうシーンはμ’sがたどった道筋とAqoursがたどった道筋の違いに千歌ちゃんが頭を悩ませているシーンだと解釈できます。このμ’sAqoursの違いの答えを求めた千歌ちゃんが1期12話でたどり着いたのが「μ’sを追いかけてはいけない」という事。過去の伝説をなぞるのではなくAqoursは「Aqoursの道」を進まなければならない、これはAqoursの過去からの解放の一つの表れであるのと同時に、ラブライブ無印という作品の後にラブライブサンシャインという作品で指揮をとる酒井監督の宣誓でもあるように思えました。

 

テレビアニメ2期では1期での過去からの解放を踏まえて「μ’sという過去から解放されるとはどういうことか?」すなわち「Aqoursの輝きとは何か」が一つの軸となって物語が展開していきます。Aqoursの活動理由の一つでもあった廃校阻止は序盤では輝きを得るための必須事項として掲げられていましたが、これはあと一歩のところで達成できず、千歌たちは輝きのありかを模索します。そしてラブライブで優勝すれば輝きが見つかるとするも、13話で「輝きはあったんだよね?」とつぶやく千歌ちゃんに対してお母さんが「本当にそう思ってる?」と問いただした時、千歌ちゃんの顔には不満がにじみ出ていました。そして最後のWonderful Storiesで輝きは今までの時間がそうだったんだという答えを得ます。この2期の流れでは1期のμ’sを追いかけないという宣言とは裏腹にどこかでμ’sを追いかけてしまっているAqoursと決してμ’sの物語をなぞらせない酒井監督の意地が見えます。それがあってこそμ’sとは異なる形でAqoursだけの輝きを見つけAqoursμ’sという過去から解放されます。

 

Aqoursメンバーのレベルに目を向けると1期において過去という束縛からの解放というテーマは様々なところで見受けられます。一番目立つところで言えば梨子ちゃんがピアノをまた弾けるようになった事。想いよひとつになれでわざわざ梨子ちゃんを送り出した事にはコンクールでピアノを弾けなかった過去からの解放を描いています。また3年生の加入回では1年生のころのすれ違いを解消する事で前に進むことができました。曜ちゃんであれば千歌ちゃんと一緒にという昔からの願いが強すぎて逆に枷になってしまっていたのを友情ヨーソロー回で断ち切りましたし、千歌ちゃんは何を始めてもすぐ辞めてしまっていた自分から諦めずに挑戦する高海千歌に生まれ変わっていました。このように過去とは違う今を描くことでメンバーのレベルでも過去からの解放は十分に描かれていました。

 

こうしたアニメシリーズでの過去からの解放というテーマを踏まえて劇場版ではどのようなテーマが描かれていたのか、今度はそちらに目を向けていきましょう。

 

劇場版における過去からの解放

ラブライブサンシャイン劇場版をアニメシリーズとのつながりで見てみると劇場版の中にも過去という要素はしっかり描かれていますし、アニメシリーズでは描ききれていなかった部分を劇場版はしっかりとさらっていたように思います。ではあらすじを見ながら過去に関わる要素がどのように描き出されていたかを見ていきましょう!

 

映画の冒頭は子供時代のようちかが紙飛行機を飛ばしているシーンから始まりますね。しかしここに梨子ちゃんが同じ場所に居合わせている事も驚きですし、千歌ちゃんが諦めずに飛行機を飛ばせるところ、もっと遠くまで飛ぶと断言するところもアニメシリーズでの千歌ちゃんの過去を考えると信じられないほどにポジティブですね。なのでこれは実際の過去の描写であると考えるよりも何らかの象徴的な表現と捉えるべきでしょう。この冒頭の表現はさいごにかいしゅうされるので一旦ここで保留にして先を見ていきましょう。

 

3年生の卒業式も終わり次の学校でスクールアイドルAqoursを続けていくことを決めた1・2年生の6人は、6人でのAqoursの輝きとはなんなのかをまた探し始めます。そんな折に新しい学校でのライブの機会を得た6人は好機とばかりにライブを行いますが、そこで失敗してしまいます。ここで千歌ちゃんのヘアピンが落ちる描写についてはまた考察したいですね〜笑(まだできてない)ただ「6人って意外と少ない」という言葉にも表れているように9人のAqoursや3年生への依存が見られます。つまり1期でのAqoursの過去がμ’sであるように、劇場版では9人のAqoursが3年生の卒業とともに過去になります。ラブライブ優勝を果たしたAqoursからどのような解放を経て新生Aqoursとなるのかそれが劇場版での大きなテーマだと言えるでしょう。これに対しても終盤で答えが出ますね。

 

さて進む道を迷ったAqoursは聖良さんのすすめもありイタリアへ3年生に会いにいきます。ここで3年生が逃げてきた鞠莉さんのお母さんという過去が出てきますね。鞠莉さんの自由を奪おうとしている描写からもお母さんは過去による束縛のモチーフだと言えます。そしてフィレンツェにてついにその母親に捕まってしまった鞠莉さんは母親から逃げるのではなく母親と決着をつけることを選びます。そこで行なったのがスペイン広場でのライブであり、これによって鞠莉さんは母親と和解、過去を受け入れた上で自身の未来を手に入れました。つまりここで描かれているのは過去から逃げるのではなく過去のやり残しを解消し受け入れることでそしてこの様子を見て千歌ちゃんは「少し分かってきた」と言います。

 

イタリアから帰ると静真高校の生徒でAqoursに協力する生徒が少し増えます。ここできたのは善子ちゃんの中学時代の同級生。最初のライブの時と同じく善子はここでも逃げようとしますが、それを花丸ちゃんと梨子ちゃんが止めて善子ちゃんは中学の同級生と一緒に写真を撮りさらには握手までします。ここもまた小さいながら善子が過去を受け入れたことを描いていますね。その次に理亞ちゃんの新しいスクールアイドルがうまくいっていないことがわかります。この時点で過去を受け入れることで前に進むことができると理解していたAqoursは同じアプローチで理亞ちゃんを助けようとします。理亞ちゃんはラブライブ地区予選でのSaint Snowの失敗を引きずり、姉である聖良さんの夢を今度は自分が叶えるのだと空回りしてしまっていました。過去から逃げていた鞠莉さんとは対照的に過去を気にしすぎていたからこそ過去に縛られている状態ですね。そこにラブライブ勝戦の延長戦を行うことで理亞ちゃんが叶えられなかった夢を一つ叶えて、そこで聖良さんから理亞ちゃんに伝えられたのが「(Saint Snowを)追わなくていい」ということでした。Saint Snowでのやり残しを解消し、Saint Snowとしての時間を思い出として受け入れることで前に進むことができました。

 

ラブライブ延長戦を終えたAqoursは再び6人でのライブの準備を進めます。ここで多くの静真高校の生徒たちが準備の手伝いに加わります。ライブの準備をむつちゃんたちがやっておくということでAqoursのメンバーは再び浦の星女学院へと足を運びます。そこで少し開いた校門を千歌ちゃんが閉じ、最後には全員が笑顔で浦の星を見つめます。ここも印象的なシーンで、閉校祭の時はみんな泣いてしまっていたのでその時のやり残しをしっかりとここで解消していますね。このシーンで花丸ちゃんが浦の星がなくなっていないということを口にします。ここでは浦の星女学院が過去、静真高校が未来という対比がなされているわけですが、過去が消えないで残り続けるものであることを述べています。だからこそ、静真高校でのAqoursのスタートはゼロからのスタートではないんですね。「今までやってきたことは決して消えない」CMで千歌ちゃんがいっていることとも一致します。

 

ラストシーンのライブではAqoursのメンバーが番号を言っていくところで3年生の声がしっかり演出されます。そしてゼロから1へだったのが1からその先へへと円陣のコールも変わっています。過去は過去として自分たちを構成するものと受け入れた上で現在の輝きを追って未来へと歩みを進める、これこそ酒井監督が今回の劇場版を通してやりたかったことなのでしょう。ライブシーンの演出では舞台に立つ6人の衣装に片翼があしらわれており、6人が一つとなって未来へ羽ばたくということが示唆されています。そして2番では3年生が6人の背後に表れ歌います。背後という過去のメタファーの位置に表れた3年生には両翼の衣装があしらわれ、それぞれの未来へと羽ばたいていく3年生を暗示しています。9人が9人であった時間を胸に宿してその先の未来へと羽ばたいていく、過去とは断絶するものではなく現在を経て未来へと通じていくものなんだということが酒井監督からのメッセージだったのではないでしょうか。ライブが終わった後の最後のシーンにはAqoursの9人が幼少期の姿で一緒に座っている絵が出てきます。9人でいた時間がみんなにとって過去になった演出だと私は捉えています。全員幼少期の姿で描かれていることからおそらくAqoursのメンバー全員が高校を卒業したのではないでしょうか。

 

そしてスタッフロールの後には波打ち際に現れるAqoursの文字が。これはアニメ2期11話で波に流される演出の後現れることはありませんでした。しかし今回の映画のテーマを考えればAqoursの思い出はみんなの心に残り続けていきます。そしてスタッフロール周辺でのシャボン玉と虹の演出、「君のこころは輝いているかい?」を思わせる画面を作った後にAqoursの「聖地」を訪れたファンの心のきらめきがそこにはありました。私はこれを見た時、Aqoursが観客一人一人に向けて「次は君が輝く番だ!!」と背中を押すメッセージだと、それを伝えるための酒井監督の演出なんだと強く感じました。

 

熱に任せて長々と書いてしまいましたが、上の内容をまとめると今回の劇場版では過去を受け入れて未来へと線をつなぐ、そういったテーマだったのかなと思います。このテーマを捕らえようと思うと、過去からの解放だけではなくもう一つ、月ちゃん一人から始まった静真高校のAqoursへの応援がだんだんと広まって最終的には静真高校の多くの生徒へと伝播したことも必要ではあります。月とは太陽の光を反射して届けるもの。太陽の光(サンシャイン)という輝きが月ちゃんから他の生徒へそしてさらに多くの生徒へと広がったように、この映画で受け取った輝きを元に今度は私たちも輝く番なんじゃないかと思っています。

 

ラブライブサンシャインにおける黒澤ルビィ

最後に劇場版まで通して見て思った黒澤ルビィの役割についてさらっと書いてみようかなと思います。

 

上で述べたようにラブライブサンシャインは過去からの解放を描く物語だと捉えられます。μ’sという大きな先達の後に続く形で始まったAqoursの物語は次第にμ’sから離れ自分自身の物語を紡ぐようになります。これと同じことが姉妹設定を持つ黒澤ルビィや鹿角理亞を通しても語られているのでしょう。

 

アニメ2期8話のHAKODATEが配置されたのは廃校を阻止できずμ’sの物語をなぞりきれなかった直後でした。そこで1期4話につづいてまた姉の元を離れて自ら行動する黒澤ルビィと鹿角理亞の不安はμ’sという道しるべを失ったAqoursの姿と重なります。同様のことが映画でもありますね。ダイヤさんが髪を拭こうとするのを優しく止めるルビィちゃん、自らライブの場所は1年生で決めると進言するルビィちゃん、そして姉とのやり残した夢を叶え自分の道を進むと決めた理亞ちゃん、これらのイメージは単なる個人の成長という描写だけでなく、Aqoursというスクールアイドルが、鹿角理亞というスクールアイドルが3年生がいた時の自分たちという過去を繰り返すのではなく自らの物語を進むという自立の象徴なんだと思っています。だからこそラブライブサンシャインの劇場版でありながらSaint Snowの過去を清算する描写が必要だったのでしょう。

 

この考察を書きながら、酒井監督すげぇ!酒井監督すげぇ!と幾度となく思いました。また劇場版を見たら思うところもあるのでしょう。今回はここで考察を切り上げます。これから何度目かの劇場版を見にいく皆さんが映画を楽しむ一助になればいいなと願っております!そして皆さん一人一人が自分の納得のいく映画の解釈を持つための参考になったらいいかなと思っております!

 

ここまで約6300字、長々とお付き合いありがとうございました!また記事を書くときまで、しばしのお別れとしましょう!